無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

ハヤブサ

ハヤブサ

 今まで僕にとってスピッツの最高傑作は『ハチミツ』だった。バンドにとってもそうだったのかは知らないが、少なくとも売上げにしても内容にしても『ハチミツ』はその後の彼らが超えなければならない壁であったのは間違いないだろう。
 ファンなり、よおく聞きこんだ人なら分かると思うんだけど、スピッツの曲というのは、すごくエロチックで、優しいけれどもその実かなり怪しかったりする。草野正宗という人はその澄みきった声と裏腹にものすごくドロドロした情念を表現の核として持っているアーティストだと思う。オリジナルとして実に2年以上間のあいた今作はその表現の核、つまりは彼の書く曲とバンドのサウンドがはじめてガッチリと噛み合った、と言っていいアルバムだ。これまでもスピッツはよりバンドらしいサウンドを目指そうとして幾度も新しい試みを行ってきた。しかしそれは草野正宗の声の優しさに対するサウンドの激しさというあまりにも単純な構造でしかなかった。今作では表面的なサウンドの感触というだけでなく、バンドのアティテュードそのものが違うのだ。1曲目から体温が違うのだ。
 そのバンドの変化に呼応するようにマサムネのメロディーにも変化がある。何というか、展開がないのだ。こう書くとマイナスに見えてしまうがそうではなく、シンプルで深いメロディーがあって、もうそれだけで充分なのだ。曲の体裁を整えるために余計なものを飾り立てるということが全くないのだ、このアルバムには。その究極は「甘い手」。名曲だと思う。美しいメロディーの循環が聞き手を軽いトランス状態に持っていく。リズムではなくメロディーでダブ的な効果をもたらす。なんかすごいぞ。
 『ハチミツ』を超えて、全く新しい一歩をスピッツは踏み出した。こういうバンドとともに人生を重ねていけることを僕はとても幸福だと思う。