無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

KID A

KID A

 僕は基本的にロックは死んだとか終わったとかいう言葉を信用しない。なぜなら、全然終わってないからだ。物議を醸したトム・ヨークの「ロックは退屈なゴミ音楽」発言も文字通りに取ってはいけないと思う。ロックに対する愛情、信頼、嫌悪、不満、諸々の感情がこれほどにこもった言葉を久しぶりに聞いた気がする。トム・ヨークという人はロックを、自分の側に置いておきたいのだと思う。自分でコントロールしていたいのだと思う。しかし、彼につきまとう時代のロック・カリスマとしての立場がそれを許さないのだ。彼は作品を何百万、何千万というリスナーの前に曝け出し、望む望まないに関わらず何がしかの思いを「共有」させられる。少なくとも、「共有している」という何百万の誤解を受け止めざるを得なくなる。ロックというものはその誤解を許容するものだし、彼自身も最初はそのつもりで歌を歌ってきたはずだと思うのだが、肥大化しすぎたレディオヘッドという名の怪物に疲弊してきていることは前作『OKコンピューター』でも充分に見て取れた。あれは共有したくないという思いを共有したロックアルバムだったのだ。
 新作『KID A』。歪んだギターは電子音に代わり、トムのボーカルもエフェクト処理され、楽器音のひとつとしてサンプル処理される。感情がない、と言われるこのアルバムだけれども、その電子音の肌触りがこうまで暖かいのはなぜだろう。こんなに気持ちよい音楽なのはなぜだろう。そして、よく聞くとどの曲にも素晴らしくエモーショナルなメロディーが流れていることに気づくと思う。それはどうしてなんだろう。彼が外界を拒否して、隠遁生活に入り、自分の気の向くままで音楽を作りつづけたいと言うのならこんなアルバムにはならなかったと思う。このアルバムは過去のレディオヘッドのアルバムにくらべても格段に分かりやすい。誤解のしようがない。「すべてがあるべきところにある」アルバムなのだ。この音は聞き手の思いを欲している。拒否したはずの「共有」と言う名の幻想を、今だ柱の影から覗き見している、そんなアルバムだと思う。音の外観は変わっても、根底にある思いは変わらない。逆に僕はこのアルバムを聞いて安心したのだ。そして発売から1ヶ月以上たった今も、狂ったように聞きつづけているのだ。柱の影にいるトム・ヨークを横目で見ながら。
 トム・ヨークは、レディオヘッドは、どこまでもロックである。