無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

フォースと共にあらんことを。

 新3部作がルークの父、アナキン・スカイウォーカーの物語だと発表された時から、このエピソードIIIで語られる物語の結末はわかりきっていた。問題はアナキンがいかにしてシスの高弟、悪の化身ダース・ベイダーに堕ちるのかという一点であり、『ファントム・メナス』以降の物語は全てそのためのお膳立てであったと言ってもいい。最初からこの映画は「すべてがあるべきところにある」ように作られる運命であったのだ。結局アナキンは、自らの愛する者を守ろうとする純粋な願いからダークサイドへと堕ちて行くのだが、惜しむらくはその過程の描き方がイマイチ淡白だったと思う。ジェダイ評議会パルパティーンの対立やパルパティーンがアナキンを誘惑するくだりなど、外堀の埋め方はかなり丁寧なのに肝心のアナキンの心象がおざなりになっている気がする。なので、アナキンがいくら苦悩してもその苦悩は見ているものには伝わらず、苦悩の末に悲劇の主人公となっても、そこに感情移入することができないのである。本来であればアナキンが最後、あのダース・ベイダーのマスクを被ったシーンで見ているものは涙を流さなければならない(ファンは拍手するかもしれないけど)。しかしこの映画の演出だと、ともすれば「それは自業自得だよ」の一言で済まされてしまう恐れすらある。これではまずい。結末を急ぎすぎたのか、そもそもルーカス自身がアナキンに感情移入できていなかったのかはわからないが、アナキンの苦悩の背景はもっと重厚なドラマとして時間をかけてでも丁寧に描ききるべきだったと思う。そうすれば、『ファントム・メナス』のダラダラした展開も、『クローンの攻撃』での目を覆いたくなるようなラブロマンスのイタさもすべて許されたであろうに。本当にもったいないと思う。しかし、ユアン・マクレガーはエピソードIVのアレック・ギネスに繋がるオビ=ワン像を見事に描き出し、避けられない師弟対決に対するやり切れない思いはアナキンの苦悩以上に観客の心を引く。オビ=ワン対アナキン、そしてヨーダパルパティーン(銀河皇帝)という二つの戦いがクライマックスを盛り上げるのだけど、ここまで正義が負け、暗い結末を迎える映画もアメリカの娯楽大作では珍しいと思う。
 もちろんこの重い結末があるからこそ、エピソードIVは“A NEW HOPE”というそのサブタイトルも含め、28年前とは全く違う物語として蘇ることになる。映画の最後。パドメはその命と引き換えに双子の赤ん坊を産み落とし、双子はルーク、レイアと名づけられる。レイアはオーガナ議員に養女として迎えられ、ルークはタトウィーンの叔父に引き取られる。オビ=ワンはタトウィーンでルークの成長を見守ることにし、ヨーダは帝国の手が及ばない辺境の惑星ダゴバへと身を落とす。(そして双子の存在を隠すため、C-3POのメモリーはリセットされる。)スター・デストロイヤーの艦橋には皇帝とダース・ベイダーの姿。そしてその視線の先には建設中のデス・スターが…。
 …すべて、エピソードIVの前提となった設定がラストにフラッシュバックされ、映画は幕となる。このダイジェスト的なラストは急ぎすぎの感もあるが、これはこれでいいと思う。物語はあのダース・ベイダーのマスクが登場した時点ですでに終わっているのだから。このエピソード3の内容だけを語ってどうなるものではない。最初の公開から28年、全6作に及ぶ壮大なサーガがここで一つの円環を結び、終焉したのだ。そのロマンこそがスター・ウォーズという作品の根幹だったのではないかという気すらする。少なくとも全作見ている人ならさほどの思い入れがなくても何がしかの感慨が胸に去来するだろう。マニアの方々はいかばかりか、と思う。映画館から帰ったら、まずエピソードIVのDVDを見直したくなる。そしてこのエピソードIIIのDVDが発売されたら、エピソード I〜VIまで一気に通して見たくなるのだろう。それを考えただけでまたワクワクしてくるのである。