無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

心に茨を持つ中年

Ringleader of the Tormentors

Ringleader of the Tormentors

 前作『ユー・アー・ザ・クワーリー』で見事に21世紀にも健在であったことを示したモリッシー。今度は6年とか待たされる(というか忘れられる)ことなく新作を届けてくれた。プロデューサーはトニー・ヴィスコンティ。曲の粒としてもなかなか揃っているし、サウンド的にもストリングスにエンニオ・モリコーネを迎えるなど、様々なアレンジを試している。ソロ以降、作曲についてはその時々のバンドメンバーが担当することが多いが、モリッシー節と言える独特のメロディーラインは健在。少なくとも前作から続く活発な活動は、若いバンドにリスペクトされた往年のミュージシャンがここぞとばかりに便乗して盛り上がっているというものではない。全編を通してゆるぎない美意識と世界観を独自のユーモアを交えつつ堪能させてくれる、美しい傑作だ。
 歌詞の上では衰えるどころかますます盛んだ。神に対して「僕は君の両足を広げさせて、その間に自分の足を割り込ませる」と、あからさまにセックスを連想させるものだったり、至上のラブソングのタイトルが「人生は豚小屋」だったり、相変わらずのモリッシーである。そして、その表現は単にエキセントリックなばかりではなく、生と死を深く捉えた内容が目立つ。1曲目からして「遥か遠い場所でまた会おう」なんて歌詞が出てくるし、曲の中で人が死んだり殺されたりする物語が多く描かれている。その殺人者は養父に虐げられた年端も行かない子どもだったりするのだ。しかし、そんな人生に対しての限りない諦念の向こうに、一筋の光明も見える。かつての「心に茨を持つ少年」に対して、モリッシーは「死ぬ前にひとつ願うのは、その少年が幸せになることだけだ」と歌う。この、あまりにも人間臭いささやかな願いを前に、これ以上何を言う必要があるというのだろう。
 スミス時代からこうしたテーマを扱ってはいたが、掘り下げ方が違う。変な話、ここで彼が引退したり死んだりしたら、このアルバムに収められた曲は「なるほどな」と思わせるものが多いと思う。アルバムの最後では「とうとう、僕は生まれた」と歌われるが、これは肯定的なものなのかはたまた逆か。曲が鏡となって聞き手の人生観が問われるような、巧妙な仕掛けになっているのである。こうした深読みに対しては一貫して「ふーん、で?」というスタンスを取ってきた彼のことだから、こんな意見を見てほくそ笑んでいるのかもしれない。いや、きっとそうだろう。それもまた、モリッシーなのだ。