無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

そもそも「新作」が必要か。

Love

Love

 「ビートルズの新作」として大々的に宣伝されて世界同時発売されたこの音源。これを聞いてどう思うかは人それぞれだろう。実際、僕も賞賛と大批判、両方見聞きしたことがある。僕は以前『レット・イット・ビー・ネイキッド』の感想(id:mago:20031202#p1)にこう書いたことがある。「個人的にはこのリミックス・プロジェクトはこれで終わりにしてほしいと思う部分もある。(中略)いろいろいじくられた『リボルバー』や『サージェント・ペパーズ』を僕は聞きたくはない。」
 この音源はどういうものかというと、そのいろいろいじくられた『リボルバー』や『サージェント・ペパーズ』を聞かされることになるものなわけだ。じゃあ、お前は自分で言ったようにこの音源をダメだと批判するのだな?と言われると、これがまた複雑なのだ。そう言いたい部分はもちろんあるし、そう言えない部分もある。世の中にはいいものもある、悪いものもある。
 まず、この音源はよく知られているように、「シルク・ドゥ・ソレイユ」のショウのためにサー・ジョージ・マーティンが依頼されたという経緯がある。つまり本来、音楽だけで楽しむものではなく、ショウと一体になって初めてその全貌が体験できるものなのである。シルク・ドゥ・ソレイユを見たこともなく、これから先見る予定もない自分にしてみれば、その半分しか体験できていないことになる。それでは意味がない。しかし僕はこの音源を全く価値のない、無慈悲なリミックスものとは思わなかった。ビートルズの楽曲を現在のテクノロジーで微分し、音の要素を素因数分解することで、その中にある一つ一つの要素がいかに素晴らしく面白いサウンドのマテリアルかと言うことがよくわかるものになっているのである。中には、とても40年以上前に作られたとは思えないサウンドもある。当時の録音技術については文献や資料でしか知識がないが、それでもどうやって録音されていたのだろうと感嘆する。こういう風に丸裸にされてしまったビートルズの音源を聴くと、本当に今の時代に新しいことなんてロックやポップスの中ではもう出来ないのかもしれないとすら思ってしまう。もう全部すでにここにあるんじゃないかと。ビートルズが先にやっちゃってるんじゃないかと。そういう感想を抱いたことは決して無意味ではないのじゃないか、とは思うのである。(個人的に、僕はビートルズの残した音源は大衆音楽の範疇にとどまらず、20世紀の人類が残した重要な文化遺産のひとつと思っている。そういう人間の感想として読んでいただきたい。)
 批判の部分はやはり、ビートルズの音源にメスを入れるのはもうやめようよ、と言うことである。上記のような感想は確かにそうしなければ得られないものではあるのだけど、あくまでも「やっぱりそうなんだな」という再確認なのである。そのためだけにここまでやる必要はないだろう、と思うのである。サー・ジョージにしても、ビートルズの音源をここまでばらばらにして再構築するということに後ろめたさを感じなかったとは思えない(しかも実際にやったのは息子だ)。出来上がった音源にどんなに満足したとしても。それはレコード会社の人間にしてもきっとそうだと思う。執拗に、「サー・ジョージが自ら製作」とか、ポールやリンゴやヨーコやオリビアが絶賛したとか、そういうことが語られるのも、これは正式なビートルズの音源なんですよ、ビートルズに触れていい人が責任もって担当したもので、当事者も了解してるものなんですよという言い訳に聞こえてしまうのである。無理矢理正当化しようとしてないか?と思うのである。こういう混ぜ方をするのか、と聞いていて驚いた瞬間も少なくないが、これを「ビートルズの新作」として評価する気にはならない。ビートルズの音楽がいかに素晴らしかったかを再確認するための一手段としては興味深いがしかし、と言うことだ。
 僕が死んだらジョンとジョージに「なあ、あの2006年に出た『LOVE』ってやつ、どうよ?」と聞いてみようと思う。その結果はこの日記に書ければ書くと思うので皆さんお楽しみに。