無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

顔のないウィーザー。

ハーリー

ハーリー

 ウィーザー、きっちり1年ぶりの8作目。2008年の『レッド・アルバム』以降、1年間隔で新作を出し続けるという、まるで日本のバンドのような多作ぶり。前作の感想でも書いたのだけど、いまのウィーザーはかつてのような「泣き虫ロック」ではない。サウンドもある意味典型的なパワー・ポップが主となり、いわゆるナードの心の叫び的なヒネた感情を歪んだギターとポップなメロディーで爆発させるというものではなくなってきている。それはリヴァース・クオモという人の人生の歩みとシンクロしている部分も大きいと思うので自然な変化だとは思うのだけど、昔のウィーザーが好きな人にはやはり残念なところは大きいのだろう。この新作が出るのと前後して、ウィーザーを解散させるための基金を募るというネットでの活動が話題になったことがあったが、今の方向性に対してそれだけアンチもいるということなのだろう。
 本作も、収録曲のほとんどがリヴァースと外部のソングライターの共作とになっていて、前作からの流れを踏襲したものになっている。ジャケットは「LOST」というTVドラマで「ハーリー」役をやったホルヘ・ガルシアという人のスナップで、アルバムタイトルもそのまま『ハーリー』である。正直、何でも良かったのではないだろうか。今のウィーザーは、というかリヴァースは、自分たちの音楽から自分の存在を消そうとしているかのようだ。曲だけが、音楽だけがそこにあれば、自分自身がその中に投影されていなくてもいい、という、極端な対象化。その方向を突き詰めていく中で曲はどんどんポップになっていく。曲がいいので救われているし僕もまだウィーザーを好きでいられているが、対象化が進むということは「誰がやってもいいじゃん」ということになりかねない。かつてのファンが残念に感じているのはまさにそういうことなのではないだろうか。
 僕もその点に関しては危惧している。究極の匿名化ということになればゴリラズという例もあるのだけど、あれは裏返ってデーモン・アルバーン以外の何者でもないという音楽になっている。少なくとも今のウィーザーの行き着く先はそういう場所ではない。今のリヴァースはウィーザーというバンドを客観的に見ている。自分がそのメンバーであるということすら意識していないかのようだ。ファンと一緒になってウィーザーの音楽を楽しんでいる。とりあえず、その姿は幸せそうではある。