無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

スクリーンに映ったのは何か。

モテキ
■原作:久保ミツロウ  ■脚本・監督:大根仁
■出演:森山未來長澤まさみ麻生久美子、仲里衣紗、真木よう子
 原作、ドラマ版と来てついに映画化。映画は原作およびテレビ版から1年後のオリジナル・ストーリー。久保ミツロウ氏自らが書き下ろしたネームを元に大根仁が脚本化したものになっている。見終わってまず思ったのは、これはこの2011年という年の、日本のサブカルチャー全般を記録したサウンドトラックのような映画だなということ。幸世が就職するのがナタリーというのもそうだし、劇中でTwitterが重要なコミュニケーションツールとして登場することもそうだし、逆にこれがなきゃウソだろうっていうものをきちんと抑えていて今の若者文化(この言葉もアレだが・・・)をリアルに反映したものになっていると思う。10年後見れば、「あー、この頃Twitterってみんなやってたよねー」ってことになっているかもしれない。でもそれでいいのである。例えばバブル時代の「彼女が水着に着がえたら」とか「私をスキーに連れてって」とかと同じように、あの時代の空気を真空パックすることが重要なのだと思う。何十年後も普遍的に見続けられる名作を作ろうとは監督は思ってなかったのではないだろうか。僕はそう思うし、その意味では成功していると思う。
 原作もそうだが、「モテキ」という作品のテーマのひとつは「恋愛を通じて藤本幸世というヘタレ男子が成長する姿を描く」ということにある。と思う。その無様な恋愛観や悶々としたセカンド童貞の妄想が数多の男子の黒歴史を暴き出してしまったことでネットをはじめとして巨大な反響を得たのはここで言うまでもないことだが、結果、その恋愛を通じて、女性とのコミュニケーション(あるいはディスコミュニケーション)を通じて、彼がどのように考え、自分の未熟さを認め、足りないものに向き合い、そして前に進むのか、ということが最終的なテーマだと僕は思っている。その面では、残念ながらこの映画版は消化不良になってしまったと言わざるを得ないと思う。
 まず、脚本的に4人のヒロインの扱いの不均衡があまりにも気になる。原作版、テレビ版の絵面との比較の為にヒロインを4人配置しなくてはならなかったのだろうが、幸世と実際に恋愛関係で重要な位置を占めるのはみゆき(長澤まさみ)とるみ子(麻生久美子)だけである。仲里衣紗と真木よう子は、はっきり言って幸世とほとんど(男女の関係としては)関係ない。ヒロインとしてオープニングで神輿を担ぐ資格すら、本来はないと言っていい。これを同列に見えるよう各媒体でプロモーションするのは詐欺行為ではないかとすら思ってしまうくらいだ。本来なら仲里衣紗にしろ真木よう子にしろもっと深く描くべきなのだろうが、それをやるには2時間の尺では短すぎる。無理して4人出す必要はなかったという気はする(ただ、2人では「モテキ」としては弱いというのもわかるが)。
 幸世がみゆきのことを趣味も合うし、気も合う、かわいい、巨乳、運命の人!と盛り上がるのはまあいい。わかる。幸世が曲がりなりにもニートではなく働き始めるというスタートになっているのも、ひとつ原作から成長したところから始まっているのかなということでOK。ただ、問題はるみ子との関係の部分。るみ子が幸世に惹かれる描写があまりにもあっさりしている(あの、ビルのハートマークだけで済ませた?)ので、幸世の何がそんなに好きになったのかもわからないし、幸世があそこまではっきりとNOと言ってしまうのも「?」だ。ていうか、33歳の独身女が自分から告白して、キスして、どんだけ勇気ふりしぼってると思ってるんだ。それを「重い」の一言で蹴るかね。33歳の女が恋愛したら重くなるのは当たり前だろう。と思うのですが。オレなら麻生久美子でいいよ全然。麻生久美子に「朝ごはん作ろっか?」と言われたら二つ返事で「お願いします!」だよ。何が不足なんだ。まあ、彼女のその真剣な思いを受け止めるだけの器が幸世には無い、というのもわかるのだけど、じゃあみゆきならいいのかよと言うところで説明が付かない。それだけ一途だから?単に好みだから?ってだけで納得できるものかな。物語の推進力、あるいは見てる方の感情移入として、このあたりから幸世という男に腹が立ちイラついてしまってしょうがなかった。るみ子の扱いはホントひどすぎると思う。勝手にるみ子が一人で納得して前に進みましたみたいな感じで描いてるけど、幸世はホントクソだぜ。
 終盤、幸世の成長という部分で重要なセリフがみゆきから発せられる。「藤君とじゃ成長できない」と。恋愛とはそれを通じて自分が成長するもの。と同時に、自分との関わりを通じて相手も成長するもの。そうあるべきもの。という、作品のテーマが直接語られる部分。幸世がみゆきと添い遂げる為には、彼女を成長させるだけの人間にならなければならない、というミッションがここで課せられるわけです。それが結局ラストシーンまで続くわけですが、その描写が弱い。結局幸世はどう成長したのか?が少なくとも僕には良くわからない。彼の成長の描写として描かれているのは、みゆきへの思いや彼氏(でも結婚してる)への怒りという私情を抑え、プロとしてフェスの原稿を徹夜で書き上げたあのシーンだけでしょう。それだけじゃ弱くね?んなモン、給料もらってる人間なら仕事として当然だろう!成長でも何でもねえよ!と思いました。ラストも、幸世の成長をきちんと描こうとするなら、みゆきと彼氏がいるところを見た幸世に、彼氏に向かって毅然と「先日は不愉快な思いをさせてしまい大変申し訳ありませんでした。素晴らしいフェスで、楽しませていただいてます。今日は取材よろしくお願いします!」とビシッと言えるくらいやって初めて成長じゃないの。それを彼氏に目もくれずみゆきのケツ追っかけるだけですよ。何だこいつ。みゆきじゃなくても逃げるよ。で、結局みゆきとキスして、なんかみゆきもまんざらじゃないみたいになって、何なのこいつら。最後の最後にバカップル誕生で終わりかよ、っていう。正直このラストは無いんじゃないでしょうか。意味わかって腑に落ちた人がいるなら説明していただきたいです。
 結局、みゆきとの関係にせよ、るみ子との関係にせよ、幸世の成長にせよ、物語を進める上での重要な要素の描き方、堀り下げ方がいちいち薄くて弱いのです。これは脚本の問題だと思う。演出上、映画を彩る数々の楽曲がその部分の登場人物の心情をあまりにも上手く補填してくれるので破綻はしないのだけど、そこに頼りすぎたという気がする。音楽の使い方はさすがに上手いし、単純に大根監督とも久保ミツロウとも世代の近い自分のような人間にはことごとくツボな選曲でもあるし、それだけ追いかけていても盛り上がれる。というか本来はそういう風にして見て楽しむべき映画なのかもしれない。ちゃんとした恋愛映画として見たらダメなのかもしれない。とすら思った。音楽をどう使うか、今この時代をどう描くか、ということ以外があまりにも雑なのだ。「映画」としての肝心な部分が。
 様々なメディアやサブカルチャー全体を巻き込んでの「モテキ」現象と呼べるようなものを盛り上げたのはすごいと思うし自分もそこに乗っかって楽しませてもらったけど、映画としては残念なものでした。誰に感情移入していいのか、最後までわからないままに終わってしまった印象。恋愛がテーマなのだからせめてきちんと「人間」を描いて欲しかったです。時代や音楽だけではなくて。

(special thanks to @gomalo さん)