無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

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矢野顕子、忌野清志郎を歌う

矢野顕子、忌野清志郎を歌う

 タイトル通り、矢野顕子が盟友・忌野清志郎の楽曲を歌うカバー集。ただ、一般的知名度のある曲は決して多くなく、RC時代の名曲「多摩蘭坂」とタイマーズの「デイドリーム・ビリーバー」くらいだろう。約半数が2000年代のソロアルバム『KING』『夢助』からセレクトされている。HIS『日本の人』に収録されていた「セラピー」など、渋い曲もある。基本的には矢野顕子のピアノ弾き語りで、彼女の声とピアノ以外の音は最小限にとどめられている。ジャケットで彼女が履いている「ブーツ」と書かれたピンクのブーツは清志郎が愛用していた黄緑のブーツへのオマージュである。
 意図的に渋い選曲をしたと言うことではなく、これには理由があるのだと思う。清志郎の歌唱を超えられない、代名詞的な曲を今さら演奏しても意味はないし、矢野顕子にとって「忌野清志郎ってこんな人だったわよね」と思える曲を選んだ結果なのでは、と思っている。特に前半は。忌野清志郎という人がどういう人だったのか、矢野顕子が彼の楽曲からその輪郭を丁寧になぞるような、そんな前半部。と同時に、ここに収められた曲は矢野顕子から忌野清志郎へのメッセージそのものであると思う。矢野顕子清志郎の関係は我々には推し量ることしかできないが、単に友情とか絆とか安っぽい言葉で表現できるようなものではなかったのだと思う。人間として同じ種類の人だ、とでも言うべき共鳴があったのだと思う。このアルバムで矢野顕子が描き出す忌野清志郎と言う人間、そして彼に語りかける歌。その先に、僕は清志郎自身の歌以上に清志郎という人間を感じることができた。優れた一人芝居に居ないはずの相手の姿が見えてくるように、このアルバムには確かに忌野清志郎の姿がある。それを感じるにつけ「胸が張り裂けそう」な想いがするのだ。
 後半に進むに従い矢野顕子から清志郎へのメッセージ性はより強くなり、「雑踏」「約束」は涙なしには聞けなかった。ゴスペル調のピアノで歌われる「恩赦」は彼の死に囚われていた多くの人々にとっての救いの歌である。そして続く「セラピー」では「そんなに心配するなよ」と歌われる。これが彼の地に居る清志郎への言葉でなくて、何なのだろう。ラストの「ひとつだけ」で清志郎の歌唱がでてくるが、その前に矢野顕子がさんざん彼のことを歌っている。これはサービスと言うか、おまけみたいなものだろう。「最後にあなたも出してあげるわよ」みたいな。
 こんなに感傷的に聞くのはファンの思い込みで、矢野顕子自身はもっとドライにこのアルバムを制作したのではないかと思う。彼の後期のソロ作品は僕も好きだったが、こんなに優れた楽曲があったのかと改めて感じることができたのも収穫だった。素晴らしいカバーアルバムであり、またどこからどう聞いても矢野顕子のアルバムでもある。天才から天才への純粋なリスペクトにただただ感動してしまう。この先も清志郎のカバーはたくさん世に出るだろうけど、これを超えるものが果たしてあるのだろうか。そう思えるくらいの傑作カバー集。