無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

真のポップモンスター。

 サザンオールスターズというのは今さら言うまでもなく、この国におけるロック・ポップス・歌謡曲、つまりは大衆音楽と呼べるもの全てにおいてその意義を変革し、また同時にその領域を拡大し続けてきたバンドである。正確に言えば、あった。彼らが音楽的な意味でシーンの最先端を走っていたのは贔屓目に見ても『世に万葉の花が咲くなり』までだろう。もっと言えば『KAMAKURA』までと言ってもいいかもしれない。
90年代中盤以降のサザンはブランドイメージが一人歩きしすぎ、本人たちの意図はともかくとして「サザンというバンドがどんな音楽を鳴らすか」ではなく「サザンであるか否か」という、その存在だけが注目されるアイコンとなっていた。活動そのものが神格化されてしまっているような大御所ならばともかく、現役のバンドとしては由々しき自体である。コンサートひとつやるにしてもその規模は膨れ上がり、ツアーとなればさらに多くのお金と人が動く。結果バンドとしてのフットワークは重くなり、リリースの間隔も空いてしまうのだ。そういう状況の中、桑田佳祐は自らのアーティストエゴを満足させる手段としてのソロ活動を続けることになる。必然的にその内容は「夏、海、湘南」などのサザンブランドとは違うアウトプットを持ち、辛辣かつヘヴィーなものとなっていた。90年代後半の桑田は明らかにサザンをやること自体にモチベーションを持てなくなっていたように見えた。
 そういう意識が変わったのではないかと思える事件がひとつあって、それは桑田佳祐のソロシングル「波乗りジョニー」のリリースだった。これは、明らかにサザンでやるべき曲だったはずなのだ。曲のイメージ、世界観、歌詞、メロディどれをとってもサザンのパブリックイメージそのものと言ってもいい曲であり、これをサザンではなく桑田のソロとしてリリースされたことで「サザン解散か?」という噂が流れたりもしたものだ。しかし僕は逆に、これは桑田佳祐がサザンというバンドの今いる状況に関してきっちりと向き合い、相対化できたからこそ生まれたシングルなのだと思った。
 そういうきつい状況を経験しながらも、じゃあなぜサザンを続けるのかというと、そこにミュージシャンとしての満足や、或いはまだ先に行けるという自分達に対する期待、確信があるからなのだろうと思う。前置きが非常に長くなってしまったのだけど、周りの状況がどんなに巨大になろうとも、自分たちはあくまでも1個のロックバンドなのだと、そういう明確な意思がこの新作からは聞こえてくるのである。「キラー・ストリート」というのは彼らの曲の多くが生まれたビクタースタジオがある青山通りの別名なのだそうだ。ジャケットもその写真である。これをビートルズの『アビィ・ロード』になぞらえて「これがサザンのラスト・アルバムか?」という向きもあるようだ(無いと思うけど)。ボリューム的にはむしろ『ホワイト・アルバム』なのだけど、ビートルズ後期のようなメンバーのバラバラ感はもちろんこのアルバムには全く無い。デビューから27年、メンバーも40代から50代にさしかかろうとする中でもう一度自分たちがバンドである意味を確認しようというようなアルバムになっている。学生時代から付き合いでもある斉藤誠をはじめとして様々なゲストミュージシャンが参加しているが、あくまでも核となっているのは5人のオリジナルメンバー。長い時間を経た中で、どれだけメンバーたちが互いを尊敬し、ミュージシャンとして認め合っているか、また、お互いのプレイヤーとしての特徴を理解しているのかということが聞いていると自然と伝わってくる。初回限定版のDVDではレコーディングのドキュメント映像が見れるが、それも非常に興味深い。
 そして何よりも重要なのは、それがまごうことなく、誰もが納得するサザンオールスターズのアルバムとなっていることだ。2枚組全30曲という、今時誰もやらないようなアナログなテイストの作品だが、収められている曲はシングルかどうかは関係なく、全てがサザン印。ロック、ポップ、歌謡曲、ファンク、あらゆるジャンルを網羅するゴッタ煮状態でありながら聞いていると「ああ、サザンだ」と思わせる音楽の記名性の高さは抜群である。密度の濃さゆえに全てを繰り返し通して聞くのはかなり体力が必要だと思うが、逆にどこをシャッフルして聞いてもOKなくらいのアルバムだと思う。参りましたとしか言えない。そして、桑田佳祐というソングライターの底なしの才能にも改めて敬服するばかりである。間違いなく、服部良一中村八大筒美京平というラインの上に彼の名前はある。