無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

失われた日常に向けて。

心ノ底ニ灯火トモセ

心ノ底ニ灯火トモセ

 イースタンユースはクソみたいな日常を生きるクソみたいな自分自身を見つめ、それでも前を向いてもがき生きるしかない庶民の嘆きや怒りをディストーションに乗せて吐き出すバンドだ。全然違う、と言う方もいるかもしれないが、僕の拙い語彙ではこのくらいの表現で乱暴に言い表すことしか出来ないのでご容赦願いたい。
 「日常」という当たり前の前提が崩れてしまった震災後の日本において、イースタンユースの歌の持つ意味は以前にも増して大きくなっていると思う。本作の曲が書かれたのはおそらく震災前であったと思うが、ここに納められた日常への執念とやみくもに前向きなパワーはは復興と言う大きなテーマを抱えた日本にとって横断幕にして掲げたいくらいのドンピシャさで我々の現状に染み込んでくる。最近の曲に比べても特に本作の曲はどん底からの再生、マイナスから反転してのポジティブなヤケクソ感が際立っているような気がする。「ドッコイ生キテル街ノ中」「這いつくばったり空を飛んだり」「砂を掴んで立ち上がれ」「再生工場の朝」なんか、タイトルだけ見ていても奮い立つような気分にならないだろうか。
 僕は出会ってからずっと、自分自身の人生や日常と差し向かいでイースタンユースの音楽を聞いてきた。本作でもそれは基本的に変わらない。しかし本作ではそれ以上に大きな表現を内包してしまっているような気がする。それも、おそらくは無意識のうちに、彼らの望まざる形で。目の前の現実を嘆いていても始まらない。クソみたいなものだろうがなんだろうが、あの日常がほしいのだ、僕達は。非日常が当たり前になってしまった今の日本において、吉野寿の渾身の叫び声は悲壮な決意で日常を渇望する。沈殿する澱みではなく、自らがそこに向かって変わらなくてはいけないと背中を押してくれる。イースタンユースはいつだってそうだった。今の日本の現実を前にしても、凛として立っている。