無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

純粋ヤクザ、チャゼル監督の業。~『ラ・ラ・ランド』感想

gaga.ne.jp

La La Land (Original Motion Picture Soundtrack)

La La Land (Original Motion Picture Soundtrack)

  • Various Artists
  • サウンドトラック
  • ¥1600

 第89回アカデミー賞において史上最多タイのノミネートと、表彰式での前代未聞の顛末もあり間違いなく最も注目され話題を集めた作品である『ラ・ラ・ランド』。ようやく見てきました。多分もう一回見に行くと思います。すでに様々なところで語られ尽くされていると思うし、今更感しかないと思いますが初見で感じたことをまとめて書いておこうと思います。

 結論から言えば、僕は楽しめました。面白かったです。ただ、事前にいろいろ情報が入ってきてハードルが上がってしまっていたのと、意外と賛否両論であるということで、ちょっとフラットな感想にならなかったかもしれません。映画の冒頭、ロサンゼルスの高速道路をジャックして撮影された「Another Day of Sun」で一気に引き込まれました。これは本当に素晴らしいと思います。僕は事前にサウンドトラックを買って聞きまくっていたので(そのせいでハードルが上がったというのもあるが)音楽のクオリティが高いのはわかってました。ミュージカルシーンは総じて楽しい。出演者たちの歌やダンスもいい。特にエマ・ストーンは主演女優賞納得の素晴らしさだったと思います。頑張ったんだろうなあ。過去の名作ミュージカルからの引用やオマージュについては識者の方々の論を見るのがいいと思いますが、それらを知らなくても楽しむのに支障はありません。僕はジャズのうるさ方(笑)ではないので、菊池成孔氏の酷評においても物語部分では一理あると思いつつジャズの扱いについては特に違和感を感じませんでした。これは『セッション』における菊池氏の論評でも同様でした。たぶん、それほどジャズに造詣の深くない一般観衆の大多数も似たようなものだと思います。
realsound.jp


 脚本の雑さについては、そもそもミュージカル映画においてどこまでシリアスな脚本を求めるのか問題というか。男女が恋に落ちました→はいハッピーな曲で歌って踊って、的なので十分だと僕は思うんですね。一片の隙もない脚本と演技でもって主人公たちに感情移入するよりは全体的な物語(あらすじ)や画面や音楽に没入できれば正直問題ないと思うのです。そういう意味で、僕にとって『ラ・ラ・ランド』は文句ないミュージカル映画だったと思います。僕がこの映画を見て違和感を感じ、すっきりしなかった点は他にあります。夢を追う主人公たちがその結果どうなったかとその過程の描き方です。これは物語のテーマに大きく関係する点です。ここがどうにも気になりました。『ラ・ラ・ランド』は映画女優を夢見るがオーディションに落ちまくっているミア(エマ・ストーン)と自分の店を持つのが夢のうだつの上がらないジャズ・ピアニストのセブ(ライアン・ゴズリング)のラブストーリーです。お互い不遇な状況で夢を語り合い、恋に落ちるという王道のロマンス。物語はセブの知り合いであるキース(ジョン・レジェンド)が自身のバンドにセブを誘う所から大きく動きます。セブは伝統的なジャズをやりたいのに対し、キースのバンドはコンテンポラリーなポップ・ファンクのような音楽です。バンドの演奏シーンではステージ上のセブも客席のミアも、大盛り上がりの他の観客を尻目に居心地の悪い表情なのです。そのバンドが大人気になり、全国をツアーで飛び回る生活になったセブはミアとの時間も取れなくなり二人にすれ違いが生じます。ケンカの中でミアはセブにこんなセリフを言います。「あんなやりたくもない音楽をやって、店を持つって夢はどうなったの?」と。この辺で僕はオイオイちょっと待てよと思いました。最終的にセブが自分の店を持つのが夢だとして、夢を語るだけでは飯は食えません。店の資金を稼ぐためにも仕事はしなくてはいけない。そんな状況の中稼げるバンドへ誘ってくれたキースはセブにとってはむしろ恩人であると思うのです。が、この映画ではキースは悪役とは言わないまでも、純粋にジャズをやりたいセブの対極にある存在として描かれます。キースがセブに「お前の言いたいことはわかるよ。でもジャズでは売れないんだ」的なことを言うシーンもあります。セブと一緒にジャズを学んだキースもどこか後ろめたさを抱えつつバンドをやっていることを匂わせるのです。何だそれ。純粋なジャズが偉くて、ポップファンクは邪道ですか?監督はマルーン5に恨みでもあるのでしょうか。百歩譲ってそれはいいとして(個人的には良くないんですが)、最終的な夢への過程でやりたくない仕事をすることはいけないことなのでしょうか。僕はそう思いません。セブの選択は別に間違っていないと思うし、それをミアにきちんと説明すればいいのです。ミアとセブの言い争いの中でも「大人になれ」という言葉が出てきましたが、全くその通り。大人として、夢と現実の綱引きの中でやるべきことをやっていくしかないのです。どうも、この映画には「夢を追う人間は回り道や寄り道をせず、まっすぐに夢に向かって進むべきだ」というピュア幻想が見え隠れするのです。それはもしかしたらジャズドラマーになる夢をあきらめたデイミアン・チャゼル監督の過去からくるものなのかもしれません。しかしそれは僕には間違った純粋主義であるように映りました。「子供のままで夢を見る」ことが正しいことなのだと言ってるようにも思えます。「夢を追う人は純粋でなくてはならない。邪道で夢をかなえても虚しいだけですよ。」というのが本作のテーマだとするならば、チャゼル監督はなんという純粋ヤクザでしょうか。

 ミアが最後に受けたオーディションの後、お互いの夢と愛情を確認した二人。そのまま関係を続けるとも別れるともはっきりしないまま物語は5年後に飛びます。ミアは女優として成功し、結婚し子供にも恵まれ幸せな生活を送っています。しかしその相手はセブではありません。旦那さんと食事に出た際にふと立ち寄ったジャズ・クラブ。そこには、かつてセブと語り合った時にミア自身が考えた店の名前とロゴがありました。セブはジャズ・クラブのオーナーとして、またピアニストとして夢をかなえていたのです。ステージと客席で目を合わせた二人。セブが弾き始めたのは二人が出会うきっかけとなった曲。そして劇中では「あのまま、二人が別れずにいたらどうなっていたか」という架空の将来が走馬灯のように描かれるのです。このシーンで涙腺決壊した方も多いことでしょう。僕もこのシーンはいいと思いましたが、やはり違和感を感じました。ラストをどう思うかは人それぞれでしょうが、僕にはセブとミアが悲劇の主人公に見えました。その「こうなっていたかもしれない未来」のシーンが美しく華やかであればあるほど、現在の二人には「こんなはずではなかった」感が漂ってくるのです。しかしミアもセブも、自分たちの夢をかなえているのです。何の不満があるのでしょう。「夢はかなったけど、隣にいるのが彼(彼女)じゃない」ことに虚しさを感じているのでしょうか。しかしセブはともかくミアがそれを言ってはいけないでしょう。旦那さんや子供に失礼極まりないですよ。これが二人にとっては夢をかなえるためにはそうするしかなかったと、どうにもならない力や状況で引き裂かれてしまったということならまだわかります。が、前述のように別れたかどうかは劇中でははっきりと描かれていません。「5年後」のシーンのインパクトを強くするための演出的な都合かもしれませんが、普通に見ただけではセブもミアも自分たちの意思で関係を解消しただけに見えます。本来ならばセブもミアも夢を実現してハッピーエンドで終わって全然いい話だと思います。チャゼル監督は「夢と現実の差」について描きたかったということを言ってますが、ロサンゼルスでもどこでもたくさんいるだろう、セブやミアのように夢を追っている人々(そして実際夢をかなえられる人間はほんの一握りでしょう)から怒られるんじゃないでしょうか。勝手に別れて勝手に未練がましくしてんじゃねえよ、夢かなえておきながら贅沢言ってんじゃねえよ!と。ミアとセブにとって「夢と現実の差」は一緒になれなかったこと、ということなんでしょうか。だとしたら二人が出会う前から持っていた「夢」は結局その程度のものでしかなかったということで、どちらにしろ共感できない話です。「夢をかなえるためには何かを諦めなければならない」ということが言いたかったのかもしれません。しかし僕にはあの「こうなっていたかもしれない未来」は彼らの意思や力でいくらでも「実現できていたはずの未来」に見えました。それを手放したのは彼らの勝手です。にもかかわらず夢を手にした現実に不満げな彼らには違和感しか残りません。

そんなことを思いました。再度見て、感想が変わったら書き直します。
あと、僕は国内盤買っちゃったんですけどサウンドトラックのジャケットは海外盤の方が圧倒的に素敵だと思います。

Ost: La La Land

Ost: La La Land