無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

数知れぬ人々の魂に届くように。

Ray Of Hope (初回限定盤)

Ray Of Hope (初回限定盤)

 『SONORITE』から約6年ぶりとなった新作。当初は2010年9月に『WooHoo』というタイトルで発売予定だったが、内容に一部納得いかなかったために発売を延期していたものだ。その過程で東日本大震災が起こり、内容をさらに抜本的に見直して制作されることとなった。震災を経て当初の意図とは違う形で様々な場面で、様々な人に影響を与え、取り上げられることとなったシングル「希望という名の光」を中心にすえ、この曲のコーラスをアカペラで編集しアルバムの最初と最後に配置することでアルバム全体のトーンを統一化している。当然、アルバムタイトルもこの曲から取っている。
 『WooHoo』という当初のタイトルからも、達郎氏自身はもっとアクティブなアルバムを意図していたはずだ。リーマン・ショック以降の先が見えない不況を笑い飛ばすような作品にしたいと語っていたこともある。本人の活動としてもバンドを一新し久々のツアーに乗り出した時期で、毎年ツアーをやると宣言しそれが実現するという嬉しい誤算(?)の中、その勢いも注入したアルバムになるはずだったものと推測する。「俺の空」などはその名残なのではないかと思う。この曲含め、本作でのドラムは打ち込み以外、現在のツアーメンバーである小笠原拓海が担当している。彼がツアーメンバーである限りはこの先ずっとそうなるのだろう。
 アルバム発表時に各メディアで達郎氏自身が語っていたように、震災を経てミュージシャンは何を歌えばいいのか、そもそも歌っていていいのか、と、自分のアイデンティティを見つめ直さざるをえなくなった。その問いに対する山下達郎の答えがこの『Ray of Hope』というアルバムであり、その後のツアーということになると思う。山下達郎という人は音楽の持つ力を知っている人だ。逆に言えば音楽の限界も知っている。この状況で音楽に何ができるか、と同時に何もできない、ということが頭をよぎったと思う。常々彼は「自分の音楽は(趣味性の高いものなので)何百万、何千万とか売れるものではない」と言っている。震災で傷ついた人々をすべて癒すことなどできはしない。しかし、自分の音楽を好んで聞いてくれている人には、その人に寄り添って痛みを和らげることくらいはできるかもしれない。これはツアーで彼が語っていたことだ。だから、そこに全力を集中して作り上げたアルバム、ということなのだと思う。アーティストとしての、そして人間としての彼の誠実さが作り上げたアルバムと言ってもいいと思う。
 音楽的には、プロトゥールスを用いたハードディスクレコーディングがかなりこなれてきたようで、『SONORITE』で見られたような奥行きの薄さは殆ど感じられない。実質1曲目の「NEVER GROW OLD」から、深く立ち上ってくるような立体的な音像が柔らかく耳を包む。アルバムとしては前作以上にボーカルを強調したものであるはずだが、ボーカルのみが浮き上がって聞こえることはなく、サウンドとの一体感が増している。
 このように『SONORITE』から本作の間にはレコーディング手法・環境の変化とその習熟というストーリーが存在しているのだが、それは『POCKET MUSIC』(1986)から『僕の中の少年』(1988)への流れを思い起させる。あの時はアナログレコーディングからデジタルへの変化というハードルがあった。それと同時に、山下達郎自身の曲の書き方も変わってきているという二重の変化があった。『Melodies』(1983)でMOONレーベルに移籍して以降の達郎氏はよりシンガーソングライター的な傾向が強くなり、風景や抽象的なイメージ(街・夏・風・海)よりも自身の内面を曲にすることが増えた。それは当時30代になった彼の人間的な変化とシンクロしていたと思う。『僕の中の少年』という傑作に収められた「蒼氓」という曲は、彼がなぜ、何のために曲を書き歌うのかという、ミュージシャンとしてのアイデンティティに正面から向き合った結果生まれた名曲だ。この「蒼氓」の一節が、今作のツアーにおいて「希望という名の光」の間奏部で歌われるのは決して偶然ではない。状況は違えど、ひとりのミュージシャンが自らが歌う意味を問い直した結果生まれた内省のアルバムなのである。その意味でも僕は今作と『僕の中の少年』に大きな共通項を見出すことができる。ひとりの人間の内省が不特定多数の心に広がっていく、その様をポップと呼ぶこともできるのではないだろうか。『僕の中の少年』と同様、これからも大事に聞いていきたいアルバム。