無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

岡村ちゃんをリアルタイムで聞ける幸せ。

Me-imi

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 岡村靖幸という人の曲に登場する男子女子は、どんなにやらしかったりエッチだったりしても、純粋に青春しているというイメージがある。セクシャルな歌詞にしても、それによって何かしらの欲望を開放するというものではなく、なぜその登場人物が性的欲望を満たそうとする行動に出るのか、ということを描き出すためのツールとして用いられているものだった。その根底には中年と不倫してたり、ブルセラで下着を売る女子高生も、心の奥底はみんなピュアできれいな人間なんだ、というある種の幻想に支えられていた部分があると思う。ところが90年代に入って、援交や出会い系など性犯罪対称の低年齢化とともに、性行為のモラルがブレイクダウンしていくと、彼のそのピュア幻想のようなものがガラガラと崩れてしまったのではないだろうか。彼の作品が世に出なくなってしまったのは、音楽的に煮詰まっているのではなく、その歌詞に投影すべき若い男女の姿が見えなくなってしまったところに問題があるのではないかと僕は勝手に憶測していた。なぜ世の中にあるものは純粋ではないのか。なぜみんな純粋であることを求めないのか。なぜ純粋でないことに無関心でいられるのか。そういういくつもの「なぜ」に対する答えを見つけるための沈黙期間だったように思う。
 9年。一口に9年といっても、その時間は驚くほどに長い。赤ん坊が小学生になり小学生が大学生になってしまうくらいの時間だ。その中で岡村ちゃんは答えを見つけ出せたのだろうか。多分見つけてないと思う。だけど、このアルバムの中にある言葉と登場人物は、かつて彼が描き出し、追い求めていた純粋さを微塵も失っていない。それは彼の音楽が今でも青春真っ只中の風景を持つ思春期的なものであることを意味する。だから彼の音楽は写真の中の笑顔のように時代とともに古くならないのだ。15年前に彼が作った曲が今でもティーンエイジャーだった頃の記憶を呼び戻すものであるように、このアルバムの曲は15年後も今ティーンエイジャーである人間の記憶に刻まれることだろう。
 「ミラクルジャンプ」のアコースティックギターのカッティングを聞いた時に、僕は「本当に帰ってきたんだ」と思った。それくらいに瑞々しく、はちきれそうな「あの時代」の風景がそこに見えた。「ファミリーチャイム」のような切なく美しいバラードが放つ輝きも岡村ちゃんにしか出せないものだ。学校の外で初めて制服以外の格好のあの娘を見たときのようなワクワクドキドキする感覚。これだよ、これ!ファルセットが高音でかすれてしまうことだけがブランクを感じさせるのだけど、あまり大きな問題ではない。純粋なものが更に見えにくくなっている時代にそれを求め続ける岡村ちゃんは以前にも増して孤高であり、切なく儚い戦いに挑んでいるように見える。しかし、だからこそ、岡村ちゃん岡村ちゃんなのであり、今だからこそ鳴らされる意味をもつ音楽になっていると思う。ただ単に新作が出たから良かったということではないのだ。それがどれだけ嬉しいことかわかるかい?