無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

僕と彼女を隔てる言葉の壁。

EXODUS

EXODUS

 僕が昔付き合ってた娘に青森県出身の娘がいた。普段は普通に話しているのだけど、二人でいるときに彼女の実家から電話があったりすると当然だが途端に向こうの方言で話し始めるのだ。青森県の方言(正確には津軽弁弘前弁とで全く違うらしいのだが第三者には判別不可能)というのはもはや外国語と言っていいくらいに何を言っているのかわからないのでこちらは自分の知らない彼女の一面を見たような気がして恐いような不安なような、あと自分の使えない言葉を喋れるお前ってすごいとか人間ってやっぱり完璧に分かり合えないものなんだとかどうにも複雑な気持ちになるのだった。このアルバムを聞いて真っ先に思ったのはつまりこういうことで。
 個人的に僕は洋楽を聞くときには少なくとも一度は歌詞と対訳を付き合わせて曲の内容を把握する(したい)タイプの人間だ。なのでこのアルバムでも丁寧に訳された対訳や解説などを読みつつ聞いた。しかしどうにも歯がゆい。以前宇多田ヒカルの曲を聞くときにはこういう手続きは必要ではなかった。歌詞を見るにしても耳から入る言葉と歌詞カードを追うだけで彼女が何を言いたいのか、音と言葉が一体になってこちらに入ってきた。全身全霊の感性をもって僕はそれを受け止めてきたつもりだ。しかしこのアルバムで僕が感じられるのは対訳のみ。英詞から曲の概要は読み取れるくらいの英語力はあるつもりだけど彼女がどういうニュアンスを歌詞に乗せているのか、細かい所まではわからない。それは実際対訳だって同じこと。対訳と言うのはあくまでも訳者の言葉であって、作者のものとは違うのだ。この一点だけがどうしても僕には乗り越えられない。
 完璧なバイリンガルである彼女にとって英語で歌詞を書くことは何も特別なことではない。宇多田ヒカルとしてデビューするまで日本語の歌詞を書いたことがなかったと言う話も聞いたことがあるし、こちらの方がむしろ自然なのかもしれない。このアルバムの中の歌詞はあまりにも流暢な英語で、ダブルミーニングの言葉遊びやスラングっぽい言い回し、皮肉やユーモアなど、日本語の歌詞を英訳しましたと言うだけでは絶対表現できない細やかな言葉が並んでいる。そしてそこにあるのは宇多田ヒカルとしては決して出てこなかったであろうセクシャルで過激なもの(「ザ・ワーク・アウト」「ホテル・ロビー」)や、日本語よりもむしろ彼女の内面を正確に表現しているのではないかと思えるくらいに赤裸々なもの(「アバウト・ミー」)だったりするのだ。今の時点ではやはり英語だからこれができたと思うしかない。どうしてこれを僕らはストレートに感じることができないのか。悔しくてたまらない。
 ティンバランドマーズ・ヴォルタのジョン・セオドアがプロデュースで参加した曲もあるが、サウンド的にはあまり特別変わった気はしない。というよりも宇多田ヒカルの前作からの流れを汲んで素直に成長した姿と言っていいだろう。彼女自身のプログラミングによるアレンジなども格段に進歩している。彼女の作るメロディーラインや曲のビート感などはもともと英語的なものだったんだなという発見もあって興味深い。だけどどうして以下同文。
 宇多田ヒカルの4作目のアルバムであり、Utadaのデビューアルバムでもある本作。この先どうやって僕は彼女の作る音楽と、というか彼女と向き合えばいいのだろうか。結局、ここの答えがまだ出ていない。こういうアルバムに「脱出」というタイトルがついているのも脱出できない側の身としては寂しい。誤解しないでほしいのだけど、僕はすごくいいアルバムだと思う。そう思うからこそ残念だし寂しいのだ。ファン心理と言うのはとかく身勝手なものだということで。…英会話学校でも通おうか。