無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

林檎の魂。

加爾基 精液 栗ノ花 (CCCD)

加爾基 精液 栗ノ花 (CCCD)

 既にいろいろなところで語られまくっているのだろうし、何より椎名林檎本人が各メディアで多くを語っているので、いまさら僕が何を言うのかという気もしないではないのだけれども、ちょっと思うままに書いてみる。
 『勝訴』と同じ様に6曲目の「茎」を中心にシンメトリーに配置された楽曲。しかし、そのこだわりは遥かに前作を凌駕している。曲名のみならず、歌詞カードの写真、歌詞、アレンジ、参加ミュージシャンまでを対象に配置した病的とも言える執着。しかし、そうでなければならなかったのだろう。作品化されたときの自らの音楽を俯瞰したときの座りの悪さ、が絶対に許されなかった。そのためには、曲が欲求する展開やアレンジをも捻じ曲げることも厭わない。何度聞いてもほころびひとつ見つからない、究極の機能美。これこそがミュージシャン、椎名林檎の抱える「業」とでも言うべきものだろう。そしてそんな人工的でプラスティックなフォルムを湛えたこの作品が、今までで最も椎名林檎という人の核の部分を表現しているように僕は思う。
 全くもってトンチンカンな例えかもしれないが、このアルバムはジョン・レノンの『ジョンの魂』みたいなものじゃないだろうか。ビートルズという呪縛から逃れ、一人の人間として再出発するためにどうしても必要だった作品。そして本作も、椎名林檎が過去の椎名林檎と決別するために、これから先も音楽を作っていくためにどうしても必要な作品だったとは言えないか。ジョン・レノンは『ジョンの魂』を作るにあたってプライマルスクリーム治療という、精神治療を受けた。そこまでして自分自身の奥底までを辿らなければいけなかった。だとすれば、椎名林檎がこのアルバムを製作した(できた)のは出産という事件を経たからなのだろうか。全くわからないけれども、このアルバムに、人間・椎名林檎の本質が今までで最も生々しく刻まれていることは確かだと思う。
 対称に配置された楽曲群は、「茎」で折り返して出発点に戻ってくるのではない。「葬列」まで聞き終える間、一歩一歩地下室への階段を降りていくように、もう戻れない場所まで連れていかれてしまうはずだ。このアルバムの美しいシンメトリーが、僕にはロールシャッハテストのように見える。