無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

先日、北海道神宮祭を見に行った。中島公園は多くの夜店が出て、浴衣姿の女性やらヤンキーやら親子連れやらでごった返していた。焼きそばやらお好み焼きやら綿あめやらから揚げ棒やらチョコバナナやらりんご飴やら様々な食い物と金魚すくいやらヨーヨーつりやら型抜きやらあやしいくじ引きやら射的やら、様々な店が軒を連ねる様はまさに庶民のテーマパークとでも言うべきギラギラした空間を演出していたのだった。バイクサーカスとかお化け屋敷、「サバイバル女」とかいう怪しい見世物小屋もあって、子供の時のようなワクワクした感覚を一時味わった(さすがに見なかったけど)。あの場にいた他の人たちも思い思いのものを食い、好きなものに金を払って楽しんでいた。

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僕はYOSAKOIソーラン祭りが嫌いだ。嫌悪している。アレに出場するために練習を積み重ねている人々の努力と熱意を否定するつもりは全くないけども、彼らに対してはまずい宗教にハマってしまった人を見るのと同じようにかわいそうだなあと思うだけである。他人事ならそれでいいがこっちにも迷惑がかかるので余計にタチが悪い。
嫌悪感の元になるのはあの祭りとそれを取り巻くムードへの違和感に他ならない。「YOSAKOIってそもそも北海道のものじゃねえよ。何でそれが地元を代表するお祭りにならなきゃいけないんだよ。」というのはもちろん大きなものであるのだが、それを置いといてもあの祭りには構造的な奇形さがあるような気がしてならない。それを北海道神宮祭に行ってみて強く感じたのだった。YOSAKOIは出場して踊る人たちが楽しくて満足するのであって、それを見る人たちはまあ、楽しいと思う人もいるのだろうけど、最初からそれを意図して祭りをやっているわけではない。観客が楽しむというのはYOSAKOIの場合はただの副産物だ。今はその副産物が意外にたくさんいることを知った運営側がどうにかしてそこから金を搾り取ろうと躍起になっているというところだろう。結局は踊っている人たちの自己満足のために道路を封鎖し、騒音を立て、見る側から金を取っているのだ。基本的にこの時点でありえないものだと思う。
お祭りとは非日常である。つまりは「ハレ」と「ケ」の「ハレ」。日常の生活から一時自分を解放し、その対称を祝福するものであるだろう。しかしYOSAKOIでは解放されているのは踊っている彼らだけで、見ている側には何も関係がない。祭りの主役、参加者は踊り手であって、観客は単なる風景に過ぎない。言ってしまえば踊り手は誰一人観客がいなくても勝手に踊るだろう。彼らの行動の第1目的は踊ることで自分達が充足感と達成感を得ることであるわけだから。ここ数年、僕がロックフェスティバルに参加して思うのは、それとは全く逆のことだ。ロックフェスは24時間音楽がそこにあるという、非日常の空間である。参加者はそこで自分を開放し、各々思い通りのスタイルで楽しむのだ。祝福されるべきは音楽と、その音楽を愛する、そこに集った人間達だ。フェスティバルの成功は参加者ひとりひとりの手に委ねられている。そういう幸福な時間を体験しているだけに、観客をないがしろにし、踊り手の自己満足のために「公共の」空間や施設を占拠するYOSAKOIに腹が立って仕方がないのである。図々しいにも程がある。(自分達だけのためにどこか隔離された空間内で勝手に盛り上がるのならまだ許せるが。)言い換えれば、観客のいないロックフェスであったり、客のいない夜店の屋台と同じである。やってる方がそれでもOKと言ってるのである。どれだけ異様で歪な構造を持つものか想像するに容易いだろう。
祭りの主役はあくまで大衆であるべきだ。YOSAIKOIで言えばそれは踊りを見に集まる観客だろう。それを「見たけりゃ見ててもいいよ、でもカネ払ってね。」とばかりにナメられているのにどうしてメディアも一般大衆も文句を言わないのだろうか。それどころかありがたがってすらいる。アホか。不思議でしょうがない。結果、踊り手が自分らはスターだみたいな錯覚に陥って勘違いし出す。何様ランドですか。踊る側も踊らされる側も早いところ悪い宗教から抜け出して欲しいもんです。