無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

三人なのに四重奏ってのがいい。

深紅なる肖像

深紅なる肖像

 1曲目「ぬけがら」の滴り落ちそうなアルペジオから一気に耳を引きつけられ、そのままラストまで離れることができない。ボーカルも、メロディーも、非常に湿度が高い。べっとりとまとわりつくように耳を捉えて離さない。ダメな人には受け入れられないだろうが、一度ハマってしまったらもう抜け出せないだろう。日本的ともいえるこの湿度の高さは、いわゆる歌謡曲に見られるものだが、椿屋四重奏の音楽はまぎれもなくロックだ。
 歌詞はとことん日本語の語感と語彙の豊かさにこだわり、メロディーも日本的な情緒性に溢れている。しかし彼らの演奏は湿度の高さにまかせて叙情に溺れることが全くない。どこか客観視しているのだ。歌詞の中で歌われる自らの暗黒や孤独や絶望に対しても、それをギターやドラムやベースの轟音と共に叩きつける行為に対してもだ。どこか淡々としているのである。間違っても「エモ」とは呼ばれない音楽、というか。僕は彼らのライブを生で見たことはまだないが、彼らはライブのことを「演舞」と呼んでいるらしい。「演じて」いるのである。僕が感じた客観性と同一であろう意識がこのことにも表れていると思う。
 「演じる」そして「客観性」という意識がいやらしい計算という意味ではなく、自分たちから発する音、演奏する姿、全てにおいてしっかりと責任を持つといういわば当たり前の前提に結実しているところがものすごく好きだし、共感できる。何のために?これもまた当たり前のことで、自分達が表現者であるためにである。「嵐の中/自ずと望んだこの場所に/涙と雨の祝福を」三拍子の中終曲で歌われるこのフレーズが持つ美しさ、切なさ、湿度の高さ、そして後戻りできない感がどうしようもないほど、いい。偶発的な運命ではなく、全ては自らの意思で。ジャケットにもそんな覚悟が滲み出ているではないか。そんなキリキリとした緊張感の中、ふっと一息つくような「小春日和」という小品が差し挟まれるところも心憎い。この音楽に、風景に出会えたことに感謝したい。絶対支持。