無事なる男

敗北と死に至る道を淡々と書いています。

自由をめざしたうたが辿り着くところ。

ロロサエ・モナムール

ロロサエ・モナムール

 ソウル・フラワー・ユニオンSFU)は、何年に一度かの割合で自分にとって本当にジャストなアルバムを出してくれる。本作はまさにそれで、このジャスト感は『スクリューボール・コメディ』以来である。その『スクリューボール〜』が出たのは2001年の7月、つまり9.11テロの前だったわけである。その後、世界は一気に混迷と戦争に突入していくわけであり、SFUのように政治的に明確なアティテュードを表明するタイプのバンドは当然、それをテーマにした作品を出すことになる。2002年の『ラヴ・プラス・マイナス・ゼロ』は特に、フットワークの軽さを生かして瞬間風速の勢いで作り上げたアルバムという感じだった。しかし、実際には政治性、メッセージ性の濃さが音楽としての豊穣さに直接繋がらないのが難しいところである。(ロック的なダイナミズムはあるかもしれないが)
 正直、僕はSFUの(というか、中川敬の)政治的スタンスに100%共感しているわけではない。なので、それを前面に出した曲を聞いても居酒屋でくどくどと弁論をふりまいている友人の話を聞かされているようで素直に入り込めなくなってしまう(平たく言えばウザさを感じてしまう)。そこにどんなに有効なメッセージや素晴らしい論説があったとしても、歌詞として乗せる以上音楽がつまらないものだったら意味がないのである。誤解しないで欲しいのだがこれは決してここ2、3年のSFUの音楽がつまらないと言っているわけではない。音楽と言葉、それぞれの強さのバランスが大事なのだということ。
 その点、今作はメッセージ色が決して薄いわけではないが、言葉が音楽に寄り添い、音楽の持つ魅力が言葉を後押ししているように感じる。『シャローム・サラーム』にも同様の感触はあったが、あれはライヴ音源もあり、純粋なオリジナルアルバムともちょっと違うし、音楽的な詰めという点では本作の完成度が確実に勝る。アグレッシブに一点突破でメッセージを打ち抜くよりも、ひとつ高い視点から全体を俯瞰した方が物事の本質が見えることもある、という気がする。簡単に言えば、かつてのニューエスト・モデルと現在のSFUの違いということなのかもしれない。それは中川敬が年齢を重ねたこととも無関係ではないと思う。僕自身も10代の頃とは違うわけで、本作でも「松葉杖の男」や「パンチドランカーの夢」など、人生を経た男の陰日なたを味わい深く映し出すようなナンバーが個人的にはフェイバリットだったりするのだ。